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| 清教徒革命と名誉革命 |
エリザベス1世の没後、スコットランド王がジェームズ1世としてスチュアート朝を開いたが、このころから市民階級の勢力が次第に強くなり、議会が力を持ち始める。
1628年、議会はチャールズ1世に対して権利の請願を提出しこれを承認させた。しかしその後、王は議会を招集せず清教徒を迫害したため、クロムウェル率いる議会軍が王と戦い、1649年王を処刑して王政を廃止した。これが清教徒革命である。
清教徒革命によってイングランドの王統は一旦断絶し、1649年から1660年まで国王を頂かない共和制(
Commonwealth of England
)となった。しかしその実態はクロムウェルによる軍事独裁政権であったため、その死後には、議会がオランダに亡命していたチャールズ2世を招いて王政復古となった。
チャールズ2世に続いて即位した弟のジェームズ2世は、メアリ1世以来のカトリックの王であった。イングランドのカトリック化を恐れた議会は、ジェームズの娘メアリとその夫でプロテスタントの国オランダの統領であったオレンジ公ウィリアムに武力介入を要請した。
これに対してジェームズ2世は衝突を避けてただちに亡命したため、流血の事態に至ることなく、ふたりはウィリアム3世とメアリ2世として共同戴冠し、名誉革命と呼ばれる無血革命が成功した。
| グレートブリテン連合王国の成立 |
1901年、急逝したウィリアム3世に続いて妹のアン王女が即位した。女王アンはこれまでのイングランドとスコットランドの同君連合という関係を改め、1907年には両国の議会を統一し連合国家とした。これがグレートブリテン連合王国の誕生である。
一方、アイルランドは中世以来イングランドにしばしば征服され植民地となってはきたが、そこにすむケルト系住民がイングランドに同化されることはなかった。イングランドが宗教的にプロテスタントに傾くたびに、カソリック信仰が根強いアイルランドとは宗教的な対立が生じたが、とくにクロムウェルの下でのアイルランド征服は残忍なものであったといわれる。1800年には連合法をもってイギリス議会とアイルランド議会が合併され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国(日本ではこれを「イギリス」と称している)が成立した。 |
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