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チャールズ・ジェームズ・ステュアート(ジェームズ6世、ジェームズ1世)
ジェームズ6世(James VI)およびジェームズ1世(James I)、チャールズ・ジェームズ・ステュアート(Charles James Stuart, 1566〜1625)は、スコットランド、イングランド、アイルランドの王。スコットランド王としてはジェームズ6世(1567〜1625)、イングランド王、アイルランド王としてはジェームズ1世(1603〜1625)となる。

ジェームズ1世の母親であるスコットランド女王メアリー・スチュアートは、イングランド王ヘンリー8世時代、エリザベス1世に続く王位継承第2位だったが、エリザベス1世に処刑されたことにより、エリザベス崩御後、当時、スコットランド王だったジェームズ6世がイングランドの王ジェームズ1世として即位することとなった。これがスチュアート朝の幕開けだ。

当時のスコットランドとイングランドといえば、規模にも経済にも大きな差があり、人口(スコットランド80万人、イングランド450万人)からも明らかだった。とはいえ、躊躇することなく母親の敵の跡を継ぎ、イングランドの王位継承の決定の知らせ(1603年3月24日)を受け入れたと考えると、若干の疑問は残る。しかし、知らせからわずか9日後にエジンバラを離れ、ロンドンへと向かったジェームズが、その後、二度とスコットランドへと戻ることがなかったこと(実際には一度だけあった)を考えると、彼にとってイングランド王への即位は、人生を変えるよほど大きな魅力を持ったものだったのかもしれない。

ジェームズ1世は王権神授説(王の権限・権力は神から授けられたもの)を信奉し、イギリス議会を軽視した政治を行おうとしたため、国王と議会との対立は深まっていた。また、監督制度(国王を首長として、英国国教会は国家の監督・支配を受ける)を重視し、英国国教会を国民に強制しようとピューリタンとカトリック教徒を圧迫したことにより、当時、多くのピューリタンが議会に進出していたため、議会との関係はさらに悪化していった。これらの対立が、次の王チャールズ1世の時代になっても続き、やがてスコットランドの反乱(1639)、ピューリタン革命(1642〜49)へと発展していくことになる。

また、ジェームズの時代に入り、エリザベス1世時代に敵対関係だったスペインとは和解した。しかし、反スペイン独立戦争の援助を通して関係を深めていったオスマン帝国に対しては、宗教上の問題等からジェームズ自身が断交の決定をしたことにより、重臣や貿易関係の商人たちから猛抗議を受けることになった。最終的にはジェームズが妥協策を提示し、いくつかの国家経費を商人たちに負担させることを条件に国交は維持できることにはなったが、その後も財政難を逃れるために議会を無視して新税の取り立てを行ったり、一部の大商人や貿易商に独占権を与えることで財源を確保したりするなどの絶対王政を強めたため、国民の国王に対する不満は高まる一方だった。

しかし、数々の対立ばかりが取り上げられているジェームズではあるが、実はピューリタンの要求の中で、たったひとつだけ彼が受け入れたものがある。それが1604年から7年かけて完成させた「欽定訳聖書(King James Version / Authorized Version)」だ。その後、270年間に渡り一度も改訂されることのなかったこの聖書は、ジェームズの生涯最大の功績と云われている。1625年3月27日、彼はシーアボールズ宮殿で亡くなった。

最後に、ジェームズに裏切られたとされるスコットランド情勢だが、皮肉なことに、戦争や暗殺などで乱れきっていた国は、これまでになく平和な時代が続いたそうだ。そして、ジェームズが統治していたイングランドはというと、その後、ピューリタン革命や王政復古などが起こる、凄惨な時代へと入っていく。

執筆者:西村あかね