|
|
 |
| ヘンリー8世と6人の妻 |
ヘンリー8世(Henry VIII, 1491-1547)と言えば、幼い頃から君主として、また語学やスポーツなどの方面でも才能を発揮していたことで知られているが、おそらく6人の妻をもったことが、もっとも有名なのではないだろうか。
1501年に兄、アーサー(Prince of Wales)が急逝したことにより、ヘンリーは皇太子となった。1509年、父の死によりヘンリー8世として即位した彼は、その2ヶ月後、最初の妻、キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon, 1485-1536)と結婚した。
キャサリンは亡くなった兄、アーサーの妻だった。当時、イギリスでは女系への王位継承が認められていなかったため、ヘンリーは息子を授かることを切望していた。しかし、彼女の度重なる流産などにより、結局、女児メアリーしか授かることができず、彼は高齢により出産が難しくなったキャサリンと離婚することを考え始めた。
そして、結婚から22年後、ヘンリーはキャサリンの侍女であるアン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507-1536)と再婚するため、離婚が認められていなかったカトリック教会に対し、キャサリンが「兄アーサーの妻だった」という事実で「婚姻の無効」の認可をとろうとしたが、結局、許可されることはなかった。そこで、ヘンリーはカトリック教会からの離脱を決意し、自ら英国国教会を設立。1534年、アンを正式な王妃に迎えることとなった。
アンはすぐに女児エリザベスを出産したが、その後、男児を流産してしまったことを境に、ヘンリーのアンへの愛情は次第に冷めていった。彼の心はアンの女官であったジェーン・シーモア(Jane Seymour, 1509-1537)に移り、彼女と再婚するために、アンを「反逆、姦通、近親姦および魔術」という無実の罪で裁判にかけ、ロンドン塔で処刑した。
数日後、ヘンリーはジェーンと結婚した。ようやく男児エドワード6世(Edward VI, 1537-1553)を儲けたが、残念ながら、ジェーンは産褥死した。また、エドワードも15歳で病死している。
その後、4番目の妻となったのはアン・オブ・クレーブス(Anne of Cleves, 1515-1557)。しかし、当時の大臣トマス・クロムウェルが画家ハンス・ホルバインに書かせた肖像画とアン本人とのイメージがあまりに違っていたため、彼女に会った直後にヘンリーの不興を買い、わずか半年で離婚されたと言われている。その後、トマス・クロムウェルもこの件の責任を取らされ、ロンドン塔で処刑されている。
同年、ヘンリーはアン・ブーリンの従妹にあたるキャサリン・ハワード(Catherine Howard, 1521-1542)と結婚した。この時、ヘンリーは49歳。キャサリンは彼よりも30歳若く、目に余る自由奔放な振る舞いを続けたことから、彼女もまたアンと同様の理由でロンドン塔に送られ、アンと同じ運命をたどることになった。
最後にヘンリーは、イギリスでは女性として初めて本を出版し、聡明な学者でもあるキャサリン・パー(Catherine Parr, 1512-1548)と結婚した。彼女は、当時、私生児の身分に落とされていたメアリーとエリザベスの地位を「王女」へと戻すことをヘンリーに嘆願し、認められた。そしてまた、彼女はエドワードを含めた3人の教育係を任されるほど、彼からの信頼も厚かった。
結婚3年半目にヘンリーがこの世を去った後、キャサリンはジェーン・シーモアの兄と再婚したが、翌年、病死している。
皮肉なことに、ヘンリー8世は息子を授かるために苦労したにもかかわらず、英国史上最も偉大な君主の1人になったのは、娘エリザベス(Elizabeth I, 1533-1603)だった。このエリザベス一世自身も投獄されていたロンドン塔に一度行ってみて、処刑された女性たちの人生に思いを馳せるのも一興、ではないだろうか。
(執筆者 西村あかね)
|
|