|
|
 |
| エリザベス1世 |
エリザベス1世(Elizabeth T,1533〜1603)は、イングランドとアイルランドの女王として、またテューダー朝最後の女王として知られている。独裁的ではあったが、学問に長け、両親から受け継いだ知性と決断力を兼ね備えた彼女は、賢明な絶対主義と、生涯に渡り行った数々の試みを通して、国民からの人気を高めていった。彼女の治世45年間は、英国の歴史において、もっとも輝かしい時代のひとつだと考えられている。
母はヘンリー8世の2番目の妻アン・ブーリン(Anne Boleyn, 1507-1536)。1536年、エリザベスが2歳の頃、アンは「反逆、姦通、近親姦および魔術」という無実の罪で処刑された。その後、エリザベスは異母姉メアリー1世同様、私生児とされていたが、父王はエリザベスにも高水準の教育を受けさせていた。
そして、1544年、ヘンリー8世の最後の妻、キャサリン・パー(Catherine Parr, 1512-1548)の嘆願により、議会はメアリーとエリザベスの王女への復権のための決議を再度行い、異母弟エドワード1世とメアリーに次いで、エリザベスにも王位継承の権利が与えられる事になった。
エリザベスが即位したのは1558年11月、彼女が25歳の時だった。ヘンリー8世が英国国教会を設立した以降、対立し続けていたカトリックとプロテスタントだったが、エリザベスが「国王を宗教上の最高権威」とし、中道化を表明。カトリックに対し、極端な弾圧を加えずに英国国教会を確立させたことで、多くの国民の支持を得ることができた。プロテスタントだったエリザベスとカトリック教会の和解こそ、16世紀後半にフランスを中心にヨーロッパ全土を巻き込むことになる宗教戦争を回避させたと言われている。
一方、イングランドの支配権を狙うスペイン王フェリペ2世(Felipe U, 1527〜1598)を夫にもつメアリー1世の死後、スペインとの対立はさらに深刻化していった。当時、弱小国だったイングランドの世界貿易への進出には、当時の貿易大国スペインとの対立は不可避だったのだ。エリザベスは外交を重ね、開戦を回避しながらも、一方では私掠船に許可証を与え、スペイン船を掠奪させたり、対岸で行われていた反スペイン独立戦争の援助をしたりもした。それらも原因のひとつになり、1588年、ついにイングランドはスペインの無敵艦隊の攻撃を受けることになる。しかし、悪天候も味方し、イングランドはアルマダ海戦で大勝利を収め、これを境に英国経済は大きく発展していった。
また、他にもエリザベスは数々の実績を残している。幣制改革を行い、労働時間や賃金を定め、救貧法により農民の無産化を回避させた。また毛織物工業の発展は商人の海外進出を促し、独占的特許状を発布し、貿易団体を組織したことにより、貿易の拡大も図った。有名なところでは、1600年の「東インド会社」の設立があるが、南北アメリカの植民地開拓の基礎が置かれたのもこの時期だ。
そして最後に、エリザベスは自ら処刑したフランス王妃メアリー・スチュアート(Mary Stuart, 1542〜1587)の息子であるスコットランド王ジェームズ6世を後継者に選び、1603年3月24日、70歳でこの世を去った。これがスチュアート朝の幕開けとなり、1707年にイングランドとスコットランド合邦するまで、共通の王と異なる政府、議会を持つ同君連合体制を取ることになる。
1998年公開の映画「エリザベス(ELIZABETH)」では、ケイト・ブランシェット演じるエリザベス1世の王位継承前のロンドン塔への投獄事件から、即位後、地位を確立するまでの出来事を知ることができる。ストーリーの展開上、多少、時期が前後する部分もあるが、彼女の生き方を知るには十分だと言えるだろう。
メアリー1世の「命日」が、その後200年間、「圧政から解放された祝日」とされたように、大英帝国繁栄の礎を築いたエリザベス1世の「即位の日」は、その後200年間、「英国の祝日」になった。
執筆者 西村あかね
|
|