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UK ロック2003年

Oasis

ビートルズ・テイストを持つオアシスの音楽。彼らが一大スターへと上りつめるきっかけとなったのは、グラズゴーのクラブで行ったライブ。クリートン・レコードの有力者、アラン・マクギーは、オアシスの演奏を聴いて契約を即決した。そのときのオアシスには、マネージャーも、エージェントも、お金もない。あるのは、すばらしい音楽だけだった。

彼らの最初のアルバム、Definitely Maybeは、UK音楽史の中でも爆発的な勢いで売れた作品で、もちろんチャートNo.1に輝く。18ヶ月経った後でも、このアルバムはチャートに入っていたのだから凄い。また、UK以外でも百万枚以上の売上げを伸ばした。

オアシス人気の背景には、彼らのライブのすばらしさがある。世界的にライブチケットは30分以内に売り切れることがほとんどで、オアシスのライブのために会場が拡張されることもしばしば。そして、彼らはどのライブにおいても成功を収めてきた。

Some Might Sayは、シングルで始めてNo.1となり、30万枚の売上げも獲得。その後も、Roll With It (40万枚)、Wonderwall(60万枚) という驚異的な数字を見ることになる。 2枚目のアルバム、(What's The Story) Morning Glory?も、文句なくNo. 1に。1987年にマイケルジャクソンのBad以来の売れ行きという。1995年までに、このアルバムは6回もプラチナを獲得。フランス、スエーデン、アイルランド、ニュージーランドでも同様の成果を収めた。

その後も、オアシス人気は衰えない。彼らは、今後何枚のプラチナ・アルバムを出すことになるのだろうか?

Radiohead

レディオヘッドのデビューは、1980年代前半に、オックスフォードのアビンドン・スクールだ。 彼らのバンド名がもともと"On A Friday"になっているのは、金曜日にリハーサルをやっていたため。1987年、オックスフォードのジェリコ・タバーンにてデビューを果たし、1991年に製作したデモ・テープから、レコード会社契約への足がかりをつかむ。

このグループが飛ばしたヒットアルバムは、何と言っても1997年のOK Computer。UKチャートでは71週間、トップチャートに記録される。MTVでは、その中の一曲、Paranoid Android を定期的に放映され、プラチナの座も獲得。90年代の最も重要なアルバムの一つとして記憶されている。

4枚目のアルバム、Kid Aは2000年に販売。前作とは全く違う実験的な音楽に、一時は路線変更かと思われた。シングルはこのアルバムから一枚も出されていないにも拘らず、このアルバムもNo1に。

最近のコンサートツアーでは、ギターを主体とした、ロックの「古きよき時代」を思わせる新曲を発表。しかし、彼らが今後、どのような路線をたどるのかは、まだまだ謎である。

The Smith

80年代の最も重要なUKバンドとして知られるスミスは、工業都市マンチェスター生まれ。メロディだけ聴けば、キャッチーなポップミュージックと思われても不思議はない。しかし、歌詞の内容は重かった。スミスの音楽は社会や体制に対する批判であり、その時代におけるイギリスの社会事情を反映していると言えよう。このグループは既に解散してしまったが、イギリスのロックとして見逃すことのできないバンドである。映画、『24 hour party people』に、彼らが取り上げられていないのが、まことに残念だ。

モリッシー(Morrissey)とジョニー(Johnny Marr)が元来のソングライターとしての役割を担い、スミスの名を含む契約には彼ら二人の名前しか現れない。1982年までに、彼らはマイク・ジョイスをドラマー、ベースプレイヤーとしてアンディ・ロークも迎え、ラフ・トレード・レーベルと契約。だが、彼らの最初のシングル、Hand In Gloveはトップ50には届かず。また、彼らの歌詞が子供に対する猥褻行為に関する内容を含んでいたため、タブロイドの非難の的ともなった。モリッシーは、もちろん、実際に猥褻行為をしたわけではないといっている。

スミスの売りは、モリッシーの間接的で中性的な歌詞とジョニーのギター。このアルバムの最後の曲、Suffer Little Childrenは、60年代に起きた幼児殺人事件にちなんだレクイエムである。少しの間、タブロイド紙にこの曲をめぐって論争が起きたが、最終的には犠牲者の母親の一人がモリッシー側に賛意を示して決着がついた。また、この頃、イギリスの大学におけるツアーを行い、カルト的な支持を得た。

独身主義のモリッシーは、様々な問題に関する言論活動も行った。彼の話題は、セクシャルティ、動物の権利、国家への忠誠心、オスカー・ワイルド、60年代の映画などと広く、彼にインタビューしたいと願うジャーナリストは多くいたようだ。ショッキングな内容を含んだ彼らのアルバムと言えば、まずMeat Is Murderがあげられるだろう。このアルバムは、バンドエイドのコンサートやIRAのテロ事件に対するモリッシーの政治的・社会的意見が含まれた曲でいっぱいである。たとえば 、学校における連続的に起こる暴力事件や、(The Headmaster Ritual), 若者による暴行、殺人、(Rusholme Ruffians)、幼児虐待(Barbarism Begins At Home)、動物屠殺(Meat Is Murder)などなど。

The Headmaster RitualやThat Joke Isn't Funny Anymoreは、ジョニーのロック・ギタリストとしての地位を確保した作品と言ってよい。ただ、アルバムの成功とは裏腹に、シングルの人気は今一つ。ロークがヘロイン中毒のため、バンドを一時去ったこともあった。また、第二ギタリストとして, Craig Gannonが入るなどしたが、スミスの体制批判的な姿勢は変わらない。1986年に発表されたThe Queen Is Deadはその題名からも分かるように、体制に対する批判を込めたアルバムだった。

レコード会社との契約に関するトラブルを抱えるなど面倒な問題が起きている最中、ジョニーは自動車事故にあう。さらに、クレイグが解雇され、結局、Brixton Academyにおけるコンサートを最後に、イギリスで彼らの姿を見ることはなくなってしまった。1987年、彼らは正式に解散の声明を発表した。

モリッシーは現在ソロ活動を行い、マーはザ・ザやエレクトロニックといったバンドと演奏したり、ブライアン・フェリーやトーキング・ヘッド、ペットショップボーイズなど、様々なグループとセッションを行っている。ただ、それ以降も、スミスとしての活動を再開する話が持ちあがることもあり、まだまだバンドとしての再出発をあきらめないファンもいるとのこと。 2004年には新アルバムが発売され、モリーッシーが再び話題に!

New Order 

ニューオーダー、それはジョイ・ディビジョンからの「新たな体制」。70年代後半から80年代前半にかけて、イアン・カーティスをボーカルとしたジョイ・ディビジョンは、オルタナテイブ・ロックの中でも最も影響力のあるバンドだった。70年代後半における憂鬱、不満、恐怖が入り混じったような雰囲気を反映した音楽がそこにはあった。

彼らのスタイルは、ベース・ギターを中心に、ドラムとシンセサイザーが流れるというユニークなものだった。このスタイルは、The CureやU2など、他のバンドにも引き継がれるものとなった。しかし、北米ツアーに出かける矢先の1980年、ヴォーカリスト、イアン・カーティスが首吊り自殺を行ったのだ。

普通なら、これでバンドは幕を閉じたことだろう。しかし、残されたメンバーたちは、新しく再出発を試みた。新メンバーとして女性キーボード、ギター奏者のギリアン・ギルバート、新たなボーカルとしてバーナード・サムナーを迎え、独自の音作りへの挑戦を行った。そしてとうとう、イアン・カーティスの追悼を兼ねた4枚目のシングル、Blue Mondayが劇的なヒットを獲得したのである。これは特別な12インチ・シングルでのみ発売されたため、商業的には利益を得られなかったが、クラブではダンス・ミュージックとして多く使用された。

ベースギター中心のスタイルは変わっていない。だが、ニューオーダーでは、サンプラーが多用されることが多くなった。彼らの影響力は、やがてオルタナティブからダンスミュージックへと広がり、テクノやハウスの足がかり的存在でもあった。"the thinking man's dance music"と呼ばれることもあった。

また、ニューオーダーは、12インチシングルにこだわり続けたバンドでもある。アルバムにはない音楽、もしくはアルバムのものをリミックスして出し続けた。
1987年には、こうしたシングルがSubstance という2枚組みアルバムにまとめられて販売された。これらの曲の多くは、5回、6回とトップチャートに上ったのである。また、このアルバムにより、New Orderが世界的にも認められるバンドになったと言えよう。

彼らの顔写真がアルバムのジャケットに載った試しがないことから分かるように、ニューオーダーはグループとして一体なのであり、メンバーの誰一人が特別な位置に立つことはなかった。が、転機を迎えたのは 1990年。イングランドにおけるワールドカップのテーマ曲、World in Motion を最後に、彼らは解散したかに見えた。と言うのも、バーナードはスミスのギタリストであるジョニー・マーとエレクトロニックを結成し、ピーター・フック はリベンジを結成、あとの二人はザ・アザ-・トゥーとして活動し始めたからだ。

しかし、その後、シングル、Regretを1993年に発表、大好評をもって迎えられた。彼らがスタジオでレコーディングした始めてのアルバム、Republicは、4つのシングルを生んだ。また、1994年、95年とには、ベスト・アルバムなるものが発売された。 現在のメンバーたちは、またもや各自が独自の活動を行っているかに見える。

Primal Scream

1980年代半ばに、ボビー・ギレスピーとジム・ベアティーによって結成。それまで、ギレスピーは同じクリートン・レーベルのジーザス・アンド・メリーチェーンでもドラムを叩いていた。ツアーにも一緒に同行した彼だったが、結局自分たちのバンドを育てたいということで辞退。ファンにとっては、ラッキーな決断だったと言えよう。

1980年代後半から1990年代前半まで、イングランドではアングラ・ダンス・ミュージックが流行する。ストーンローゼスやハッピーマンディがアングラ・シーンを占め、次第にメジャーへの仲間入りを果たそうとしていた。これに刺激を受けたプライマルは、DJの友人にアルバム、I'm Losing More Than I'll Ever have(僕は持っていたもの全てを失いつつある)のリミックスを依頼。その結果は、失うどころか人気を獲得。新しく命名されたLoadedは、アングラ・コミュニティに歓迎をもって迎えられた。

1991年には、3枚目のアルバム、Screamadelicaが発売された。結果は、誰もが認めるサイケデリック、ダンスロックの王道。ハウス・テクノとロックが融合した時代の幕開けとも言える。このアルバムで、プライマル・スクリームは、マーキュリー音楽賞を獲得した。

その後、ファンが待ちに待った4枚目のアルバムGive Out But Don't Give Upは、なぜかローリング・ストーンズ風のロックに。悪くはないが、これには批評家もファンもがっかりした。

しかし、1996年の映画、トレインスポッティング (Trainspotting)のタイトル・トラックは、ダンスロックに回帰した作品。Screamadelicaより暗めの仕上がりとなった。その後はプライマル路線が確立。Vanishing Point,(1997)、XTRMNTR(2000)は、共に重厚路線を保っている。また、ストーンローゼスの元べーシスト、マニが加わり、共同でKowalskiが作詞作曲された。彼の参加により、プライマルは新たにベースによる重厚感を増した。2000年はもう過ぎた。しかし、現在でも、XTRMNTRは、音楽ファンの間で革新的な作品として認められている。